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ytc_17の日記

6月最後の冒険

 

6月最後の冒険

 

 

 

■曇り時々雨

 

   朝、9時に目が覚める。体が重く意識が鈍い。カーテンの隙間から曇り空がみえる。休日なのだから洗濯をしなければ、と思う。でも意識が鉛のように重い。どうにか体を起こして洗濯機に一週間ぶん溜まった衣類を放りこみ、洗剤と柔軟剤を入れてスイッチを押す。それから再びベッドにもどり、薄い意識の中で今日の予定について考える。昨日の夜、羽田発のバスに乗っているあいだも体が軽ければ軽井沢に行こうと考えていた。でも朝、目が覚めてみると、とても軽井沢になんかいけるような体調ではない。一週間、ほとんど熟睡できなかった。睡眠がぶつぎりになり、浅い夢をみて、夜中の四時に目が覚め、四時半になっても眠りに落ちることができなければビールを飲んでやりすごした。ひどい一週間だった。そんなに簡単に体は回復してくれない。そんなことを考えているともう一度眠りに落ちていった。休日の朝が少しずつ失われていく。次に目を覚ましたのは11時を過ぎたころだった。洗濯機の中にはまだ洗い物が残っている。体を起こしてどうにか洗濯物を片付け、冷たいカフェオレを作り、昨日買ったトヨタの株価をチェックしながらそれを飲んだ。

 

 

 

トヨタ 7203  

 

 

 

 疲労回復のため、温泉に向かうことにする。それほど遠くない場所がいい。google でいくつか県内のスポットを探し、相模原の”いこいの湯”という場所に決める。ゆったりと風呂につかり、食堂でかつおのたたきを食べた。プラスティックの茶碗にお茶を注ぎ、それを飲みながらこの後どこへ行こうか考えていた。そして知人が荻窪の本屋で小さな個展を開いている、とメールがあったことを思いだした。そのまま相模原から荻窪へ向かうことにした。スマートフォンで距離を確認する。睡眠をとり、風呂につかり、食事をして少し体が回復したようだった。

 


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 車を運転しているといろんなことを考える。知らない町を通りすぎていくと記憶が少しずつ整頓されていく。周囲の風景や標識を無意識に記憶し、スライドが入れ替わるように過去の記憶が消えていく。杉並区桃井に向かう途中、調布市を東西に渡る国道20号を車で走っていると、背の高い街路樹が舗道の両脇に並んでいる。六月の濃い葉を身につけた常緑樹のあいまを通り過ぎていくと、感覚の底の方を掃除してくれるような、鮮やかな余韻をあとに残していく。そこにはいろんな人の暮らしがある。 

 

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 今年に入ってからだけれど、週末にこんな小さな旅行をするのが習慣のようになっている。なにも観光地でなくていい。ひとけがなくて、静かで、リラックスできて、体が回復してくれるような場所であればどこでもいい。観光スポットなんて、返ってないほうがいい。これからもこれくらいの規模のショートトリップはつづけていくだろう。いずれ軽井沢にも行きたいと思う。

 

 

 

 

 

 

itinerary ①

 

 

 旅行について書くことはあっても、計画段階で書くことはこれまでになかった。

 ただ、今回は少し旅のプランを整理するために、走り書きしてみることにする。

 

 目的地: 長野県佐久地方

 

 1) 旧三笠ホテル

 2) barman    https://tabelog.com/nagano/A2003/A200301/20017220/

 3) 小諸城

 

 宿泊拠点: 佐久平駅(レギュラーのホテルがあるため)

 

 交通手段:

 1) 車

 2) 電車

 3) 高速バス

 

 上記の目的地を効率よくまわるために、交通手段を検討中。

 

 

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googlemapで確認すると軽井沢駅-佐久平駅間で交通手段が新幹線以外になさそうだ。佐久平を拠点にすると、三か所のスポットを効率よくまわることができない。

神奈川-長野と、長野県内の三箇所(佐久平-小諸-軽井沢)をうまくまわる方法はないだろうか。

 

温泉とメンタル

 

 今年の冬は温泉にばかり通っていた。毎週必ず週末になるとどうしても温泉に浸かりたくなっていた。下記にいくつかあげてみる。

 

◇丹沢、相模原、山梨、奥多摩、横須賀、厚木、秦野、、など。

三月に広島県呉市に行った時にも瀬戸内海を見渡せる温泉に浸っていた。

 

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音戸うずしお温泉 http://www.shion-spa.jp/

 

 

 夏目漱石が近代化に憂いて(かどうかわからないけど)修善寺で自己療養をしていた気持ちがなんとなくわかる。時間が経過しても人間の本質的な部分のメカニズムはそれほど変わらないのだろう。結局のところ、どれほど時代が更新されてもメンタル面のメンテナンスに有効な手段というのはそれほど数多く与えられていないのだ。

 

(後追いでブログをみるとおなじような効用を目的にされている方もおられるようだ。)

 

 季節が変わり夏に近づいていくと、今度は市民プールに通うようになった。目的としては温泉とマラソンの効用を足して二で割ったような感じだろうか。思い返すとマラソンもプールに通うことも、あるいは温泉さえも小さい頃はまったく気持ちが向かわないアクティビティだった。そのどれをとっても楽しいとはとても思えなかった。どちらかと言えば、それは大人に強要される種類のことだった。

 

 率直に言えば、家で漫画を読んだり、TVゲームをしている方がよっぽど充足していた。今となってそれらの娯楽は関心を持てないだけでなく、その時間にまったく意味を見いだせなくなってしまった。脳味噌が書き換えられてしまったように。

 

 もうすぐ四十歳になる。いわゆる人生のターニングポイントなのだろう。いま自分の嗜好や感覚がかわっていくのを定点的に観察してみて、それはいったいなんだったんだろう、と不思議に思う。一つひとつのことが、自分の思考の中で機能したりしなかったりするのは、いったい何を意味しているんだろうか。

 

 

 

闇の密度の濃い部分

 

 七月二十六日未明に起きた「相模原事件」の経緯を少しずつメディアから伝え聞いていて、ふとある映画のことを思いだした。

 

『セブン』(Seven、劇中の表記は"Se7en")

猟奇殺人を描いた1995年公開のアメリカ映画。

監督デヴィッド・フィンチャー

 

 以下、いくつか小説版と映画版からの引用。

 

・「子供を育てるより虐待する方がやさしい。愛すること、愛情を注ぐことには大変 な労力が必要だからだ」

 

・「地下鉄で、男が話しかけてきた。寂しい男の、つまらない天気や何かの話だ。相槌を打っていたが、くだらなさに頭痛がしてきた。思わず突然、その男にゲロを吐きかけた。男は怒ったが、私は笑いが止まらなかった」

 

 そして、連続殺人を犯したジョン・ドウ(ケヴィン・スペイシー)を逮捕した後の刑事役デビッド・ミルズ(ブラッド・ピット)とのやりとり。

 

・「お前は罪もない者を殺した」

 

 このミルズの問いに、ジョン・ドウは興奮気味で捲(まく)し立てていった。

 

「罪がない? 冗談だろ。あの肥満男。満足に立つこともできず、あのまま人前に出れば、誰もが嘲笑い、食事中にあいつを見れば、食欲は消え失せる。あの弁護士など、感謝状をもらいたい。あの男は生涯をかけて、強欲に金を稼ぐために、あらゆる嘘をつき、人殺しや強姦魔を街に放してた。あの女。心が醜くて、見かけだけでしか生きられない。ヤク中など、腐った肛門愛好者だ。それに、あの性病持ちの娼婦。この腐った世の中で、誰が本気で奴らを罪のない人々だと? だが問題は、もっと普通にある人々の罪だ。我々はそれを許している。それが日常で些細なことだから、朝から晩まで許している。だが、もう許されぬ。私が見せしめをした。私のしたことを人々は考え、それを学び、そして従う・・・私は憐れみなどしない。皆、神に滅ぼされたソドムの住民と同じだ」

 

 やはりこの現代社会はどこかしらひずんでいて、それをなんとかやり繰りしながらここまで前進してきたように思う。こういう事件が起きるたびに、清算することもなく、検証することもなく、あちら側とこちら側に隔てるだけで、またもとの歯車に戻っていく。

 

 

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いろんな層について

 

 ニックハノーアーというアメリカ人投資家の動画(TED)をみた。世の中にはいろんな意見があってそれがいろんな層を形成しているのだと思う。その動画をみていて、ふと自分自身の中にもいろんな”層”が重なり合っていることに気づいた。

 

 たとえば日本の政権与党や東京都知事選、今年十一月の米大統領選について。贅沢を言えば自分個人の生活の質が向上し、なおかつ町や国全体が向上していくことがよりよい選択肢だと思う。あるいは自分の生活さえよくなれば、と考える人だっているかもしれない。あるいは自分の国に誇りをもっていて、国の経済状況が向上していけばいい、という人だっているかもしれない。

 

 ニックハノーアーという人は、莫大な(それこそ日本では考えられないくらい)資産を形成していて、それでもなお今後の社会全体を改善していこう、という視座を持ち合わせていた。それは結局のところ、中間層を分厚くすることでしか、現代社会の豊かさを最大化することはできない、という考え方だった。

 

 株価が上昇して個人が一喜一憂することと、国全体を豊かにしていこうという視点を同時にあわせもっている人があまり日本にはいないような気がする。それは結局のところ同根なのだ。

 

 

www.ted.com

 

 

 

これまでのこと、この先のこと


 帰りの電車の中で、ふと振り返ると、できる仕事の幅が広がっていることに気付いた。これまでに文字通り、いろいろな種類の汗をかいてきて、試行錯誤があり、自分なりに知識を吸収し、習慣化させてきた。結果としてこれまでを振りかえってみると、分からなかったことを理解し、できなかったことができるようになった。


 なんという名前を付ければいいのかわからない。ただ、一つだけ言えることは、この先もずっとこれを反復していくことしかできないのだろう。この反復を引き受けることしかできないのだ。この習慣の集積にしか人生の行き場はない。それだけは断定できる。


 ここは地獄ですらないのだ。


死んでこそ、浮かぶ瀬もあれ、



ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

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書くことについて

 

 文章を書こうとする時に、すらすらと言葉が流れてくる時と、詰まる時がある。これは勉強にも同じことが言える。すっと集中できる環境と、そうではない環境がある。自分の家の自分の部屋の中にいるとどういうわけか言葉が全く出てこない。どうしてだろう。でもこれまで全くと言っていいほど集中できなかった。自室というのはインプットにもアウトプットにも向かない環境なのだろう、少なくとも僕にとって。

 駅前のカフェに行くことがある。本を読んだり、何かを書こうとしたり、あるいは勉強したり。カフェという空間は当然、店員や他の客がいる。音楽がかかっていることもある。カフェでは集中できる時と、できない時がある。向いているとも言えるし、向いていないとも言える。

 では、どういう環境が限りなく自分にとって集中を必要とする作業に向いているのだろうか。図書館やホテルでも試してみたことはあるが、なかなかうまくいかない。自室と似ているのだが、あまりにも静かな環境は返って集中に向かないようだ。仕事が忙しい時、あるいは帰りの疲弊した電車の中。そういう時の方が、返っていろんなことが思い浮かんでくるようだ。もっとそういう時間、そういう環境に出会いたい、そして最大化したい。

 

 

 

職業としての小説家 (Switch library)

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