bat & ball

ytc_17の日記

新旧雑感

 

 外資系の企業で働きはじめて二年になる。先日、会社の上司と飲みに行った。

 
 いわく、外資系といっても内部の人間の九割は日本人だし、看板がどうあれ組織の在り方そのものを変えないかぎり悪い意味での日本社会になっていくらしい。明日からなくなっても困らない名前だけで高給な役職。そういうのを切りたくても切れないし、なかば諦めているらしい。よく耳にするような話だけれど、自分だったらどうだろうか。会社に必要ないと自覚したら自分から手をあげて辞職することなどできるだろうか。
 
 よく年嵩の人を会社でみていて思う。いかに高給取りであっても、若い社員がチームワークを持って明るく仕事をしていると、どこかしら羨ましいんじゃないかと。職位もあるし、資産もある、ただそれでも、と思う。まあ、だからと言って時計の針は進めることしかできない。どこかの電機メーカーが追い出し部屋を作っているそうだけど、まだそこまであからさまなことはなさそうだ。
 
 
 結局、組織の中にそういう盲腸を作らないためには、はじめからそういう部署や役職を作らないしかないんだろう。できてから考えると後手を踏んでいつまでもなし崩しになっていく。
 
 きっと日本はこの二十年くらいずっとそうやってきたんだろな。
 2032年くらいには変わっているだろうか…?
 
 

いいところ

 インターネットのいいところは自分の知りたい情報を、「自分の知りたいと思えるやり方で」教えてくれるところだと思う。

 

 テレビだと時間的、表現的制限がある。新聞だと情報の表現方法が(自分にとって)敷居が高いと感じる。でもインターネットだと自分が知りたいと思う情報を、自分にとってわかりやすいかたちで伝達してくれる場があるし、そこに自分の意志でたどりつくことができる。

 

 ちきりんさんのブログがいい例で、堅苦しい情報でもそれを噛み砕いて(ゆるーく)伝えてくれる。差し出す情報もどちらかというと、少しだけ近未来的なことが多い。

 

 ラジオのヘビーリスナーではないけれど、テレビのニュースや新聞ではそういう「やり方」で情報を提出してくれるところはなかった。今後も、自分にあわせたソースのフォローはしていくと思う。

 

 生き方を変えるには、

 1)住む場所を変える

 2)つきあう人を変える

 3)生活習慣を変える

 

 

帝国化していく

 ちきりんさんのブログを読んだ。

 

 21世紀は民主主義というのが相対的に背景化し、資本主義がますます前景化してゆく。本当にその通りだと思う。テレビでTPP関連のニュースをみかける。そのなかにISD条項というのがあって、簡単に言うと企業が貿易で不当な取引をされた場合、企業や投資家は世界銀行(ワシントン)を通して国を訴えることができる。企業の自我がはどめを失って肥大化しているようにさえみえる。

 

 個人の価値観のありかなんて何も機能していないようにみえる。それはなにもテレビなどメディアの中だけではなく、自分の所属する職場についてさえそう思う。しかるべき経験や知識、社会的ステイタスなどを保持していないと、ただそれだけで看過されてしまう。その小さなコミュニティのなかでは民主主義なんてまるで機能していない。自殺者が膨らんでも、不況で賃金格差が進んでもソーシャルな分水嶺を隔てた向こう側には単なる他人事でしかない。


  結局、個人でできることは成功するまで挑戦を繰り返すことだけなんだろうな。社会に変化を期待していたらそれだけで二十年くらいかかってしまう。実行すること、もうそこにしか価値はないと思う。

意識のあり方

 

 アメーバの藤田さんのブログを読んだ。起業十周年、2008年のときに書いた文章を引用していた。 “鼻で笑われたこと、相手にしてもらえなかったこと、悔しかったこと、実現できなかったこと、あげ足をとられたり、陰口をたたかれたこと” など。それでも自分が信じたことを継続し一つひとつ目標を実現してきた。いまではもうそんな怒りや悔しさは消えてしまった、と。

 永井秀樹さんのブログを読んでいても通じる部分があった。ただ仕事ができるようになりたいと純粋に思っているだけなのに、駆け引きをしてると思われたり駆け引きをされたり、つまらない些細なことで脚をひっかけたり。ただ最近になってそういうことにも少しずつ慣れてきたように思う。職場でもそれ以外の場所であってもいい、たったひとりでも自分の姿勢や生き方を支持し、応援してくれる人がいればたとえどれだけひどい状況であっても頑張ることができる。いまはひとりどころではない、いろんな場所でいろんな人が応援してくれる。そこに甘えるのではなく、何かを期待することもせず、ただ自分の向かう場所に一ミリでもいいから近づくこと。これまでに受けてきた恩は返すことなどできない。金を渡すことなどできないし、自分が先輩に対して何かを返すことだってできない。できることは自分が少しでもいいから仕事ができるようになること、自分の向かう目標に近づくこと、人生を充実させることだけ。それを静かに達成することだけが、僕を応援してくれた人への恩返しだと思う。

 

 澱みにたまって人の脚をひっぱったり、躓いて転んでいる姿をみてせせら笑ったり、そういう人種もこれまでだってたくさんみてきた。くやしかったし、見返してやりたかったし、黙らせたかったし、相手になんてしたくなかった。藤田さんはそんな人種を相手にしない、つきぬけた場所にいる。それをいつか、一日でもはやく実現できるようになりたい。

再起動

 

 Twitterでフォローしている宋さんの言葉。

 

「バネが縮むことでエネルギーを蓄えます。朝は暗黒を通じて光を放ちます。草木は寒さを耐えて新緑を噴出します。我々人間は、元気のない時期、自信のない時期を経て成長の中身を作るのです」


「恥ずかしいと感じた時、それは運命があなたを研いている時。寂しいと感じた時、それは運命があなたに期待している時。貧しいと感じた時、それは運命があなたを豊かにしている時。進歩を感じた時、それは運命があなたを奨励している時」

 

 何度でも繰り返して成長する。自分の内なる声。「いま」はいましかない。雑音を消し、自分が本当に求める時間の方に耳を傾けること。他人にできて、自分にできないことなんて一つもない。

 

 

 

 

宋文洲猛語録

宋文洲猛語録

 

端境期

 
 社会にあるあらゆるものが紙から電子に移行しようとしている。そんな話が職場の内外でも聞こえるようになってきた。今後、通関業でも必ずその動きが加速するし、また淘汰されるだろう。いま自分に子どもがいたらどんな職業を推薦するだろう。公務員だろうか、あるいはエンジニアだろうか。2013年で中学生の子どもは、どんな会社で働きたいと思うんだろうか。僕が学生だったころ、自分のアクセスできる視野のなかにこういう仕事をしてみたいと思えるものはまったくなかった。
 
 小さな小口の貿易からはじめて電子版通関業の会社をはじめること不可能だろうか。NACCSの廉価版がでればな、とおもう。交通費のない派遣社員でも職住近接できるし、通勤の混雑解消にもなる。地価の高額な都市部に職場を集中させる必要もない。もっと関税について、通関について勉強しなければ。あこがれる人に気づき、そのまねをすることはある程度できる。しかしその継続、繰り返しこそ重要だ。反復すること。いつのまにか自分のものになっていること。季節が冬から春に横断している。

遠い話、近い話


 02/23(土)放送の「朝まで生テレビ」をみる。乙武さんが出演していることは知っていたが、東浩紀は知らなかった。テーマは教育問題だったけれど議論の焦点が遠すぎて実感もないし集中してみれなかった。「昔は」とか「フィンランドでは」と言われてもどちらかというとサイエンス・フィクションみたいに聞こえてしまう。

 2012年自民党政権公約に「道徳教育の充実」とある。おそらくこれから五年後、十年後も政権公約が教育のありかたに影響を与えることはないだろう。これまでがそうだったように。しかし「シフト」しているものもある。それはゆっくりとしていて日常で意識することはほとんどない。それでも失われた二十年があと二、三十年つづけば、個人のもつ意識はもっと変わっていくと思う。これまで常識とされていた意識が、実は一過性のものだったんだ、と。家入さんのやろうとしている実験がどうなるか、僕にもわからないけど興味はある。

 

 今日はこのあとゼロックス・スーパーカップサンフレッチェ広島vs柏レイソル)をみる。